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創業者の軌跡

原点から創業まで

創業者の五味義貞はに香川県三豊郡高室村字岡(当時)に生まれた。父一人・子一人の貧しい家庭で育ち、9歳から他家へ奉公に出る。それから転々と住み込み奉公を重ね、働くものの立場で考える視点、勤労と成果を尊重する姿勢を身につけていく。18歳で出郷を決意。関東大震災後の震災復興で働く為、焼土と化した東京へ。東京港芝浦で沖中仕(おきなかせ:港湾労働者の旧称)の仕事に出会い、震災復興の最前線で活躍。誰よりも責任感が強くよく働く五味義貞は周囲から一目置かれ、荷主の大手商社に推されてに「五味組」を設立。24歳の若さで20人近い仲間達を束ねる店主となった。

創始者写真

東京港と五味組の草創期

五味義貞は当時から型破りであった。不透明な経理が当たり前であった時代に、五味義貞は荷主にも作業員にも経理を公開し、開けっ広げの経営を行った。また、彼自身が作業員の1人として先頭に立って真っ黒になるまで働き、周囲の仕事の質も自然と上がっていった。その結果、五味組の評判は業界へ知れ渡り、仕事が舞い込むようになる。とりわけ、荷役の中でも人が嫌がる魚油やセメントなどの積み卸し作業となると、まっさきに指名されるようになった。

に五味義貞(当時26歳)はハナ子(当時23歳)とめぐりあい結婚。ハナ子は、一日中現場につきっきりの義貞を支えるため、組の切り盛りを全て行った。夜中の2時に起床して作業員の朝食を作り、すぐに昼の弁当の仕度。合間に仕事着の繕いや洗濯を行い、さらに資金繰りから事務作業まで、全ての面から義貞を支えた。

創始者五味義貞・妻ハナ子結婚式

戦時下、命がけで都民の生命線を守る

に東京大空襲が始まり、都民の疎開で人手集めに苦労する中、五味義貞は東京都の生命線である輸送を命がけで確保する事を決意。気持ちを汲んでか残ってくれた作業員達も東京港と生死をともする覚悟を決めた。五味義貞は戦火で自宅を焼かれ、七号明治丸という持ち舟を宿舎にしたが、終戦まで一日も休むことなく都民の生命線を守り続けた。地獄絵図さながらの日々だったが、五味組に踏みとどまって働いてくれた22~3名の仲間たち全員がそろって終戦の日を迎えられた事が唯一の救いだった。

はしけ荷役風景

終戦から復興へ。戦災孤児の親になる

戦後、東京港は米軍の艦船で溢れていた。船や兵舎から出るゴミの始末が大きな問題になり、米軍はその処理を東京都に命じた。当時、ゴミを処理場に運ぶ船や車を持っている業者が少なかった為、機帆船を持つ五味組がこの処理を一手に引き受けた。米軍から出る様々なゴミの中には、厨芥(軍の残飯等)も含まれていた。そのまま処理するのはもったいなく、衛生面にも問題を感じていたあるとき、米軍将校から「米国では生ゴミを集めて養豚をしていた。」という示唆を頂いた。その後、五味義貞は養豚場をつくり、厨芥をエサにして豚の飼育にも精を出した。また、当時の東京には親兄弟を失った戦災孤児が大勢おり、靴磨きなどをしてその日暮らしをしていた。中にはスリやかっ払いをして警察に補導されるも、少年院から出てくれば同じことを繰り返すというイタチごっこの状況が続いていた。五味義貞は戦災孤児に自活の道を与え更生させてやりたい気持ちから、都から借りていた8号埋め立て地の一画に宿舎を建てて60名ほどの戦災孤児たちを引き受けた。疎開先の実家に子供を預けて東京へ戻ったハナ子は、戦災孤児の母となり世話に明け暮れた。養豚場は、戦災孤児の子供たちに協力してもらい、最盛期には月に1,000頭も出荷するまでになった。その後、子供たちはそのまま会社で活躍したり自立したりするなど、それぞれ立派に成長した。また、終戦翌年のに法人登記を行い、「株式会社五味組」が誕生した。

株式会社五味組写真

富士港運株式会社の誕生。東京港で初の荷役近代化を牽引

株式会社五味組は順調に成長し、従業員も100人近くになったに「富士港運株式会社」に改称した。そのころ、港湾荷役の業界に18歳から身を置いて経験を重ねた五味義貞は、手作業での荷役に限界を感じていた。その解決の第一歩としてワイヤー製モッコを考案し、非効率で危険だったスクラップの本船積み込み作業を改善した。その後も五味義貞は常にどうすれば「より安全に」「より能率的に」「少しでも気持ちよく」仕事を進めることが出来るかという課題について考え続けた。改善策のヒントを得る為、接収されて立入り禁止になっている埠頭の鉄条網の外側から、進駐軍の荷役作業を観察した。揚げ降ろしされる荷の重量を長年の勘で推測し、上げ下げの回数を数え、どの程度の労力に相当するかを計算したうえで、港湾荷役の近代化は機械化以外ないという確信を得た。五味義貞はその時から埠頭が返還されて規制がなくなり次第、真っ先に機械化に着手することを心に決めていた。その後、東京港公共施設の返還運動を推し進め、 に竹芝桟橋の一部、に日の出桟端の一部が東京都に返還。 五味義貞はすぐさま東京都・東京港運協会・東京港港湾運送事業協同組合と連携し、荷役事業の近代化を引き受け、進駐軍のトラッククレーン・フォークリフトを購入した。富士港運株式会社が導入したトラッククレーン・フォークリフトは、東京港で初めての設備近代化であり、岸壁での作業を一変させた。

トラッククレーンを利用した当時の荷役風景

東京港未曾有の船混み解決の為、業界初の私設埠頭倉庫を開設

頃、高度経済成長に伴い、外国からの原材料・木材・スクラップなどの輸入が激増。東京港の処理能力を超え、開港以来未曾有の船混み状態となり、待ち舟が港外にあふれた。荷主・船会社に不自由をかけていた事に心を痛めた五味義貞は「限界に達した東京港の公共埠頭だけに頼るわけにはいかない」と考え、当時異例だった港運業者として初の私設埠頭を持つことを決断。千葉県市川市に用地を確保してに私設埠頭倉庫を開設した。東京港で船混みしていた入港船の分散化を図り、船混み状態の緩和および市川船橋港の流通機能の発展に貢献した。また、には千葉県千葉市にも第二の私設埠頭倉庫を開設し、富士港運は京葉地区でも確固たる基盤を築いていった。

開設当時の市川営業所

五味義貞が貫いた理念と姿勢

五味義貞は作業員と一緒に現場で汗を流していた頃、「同じ仕事なら、人がやる十倍も二十倍も丁寧にやろう。そうすれば黙っていても仕事のほうから集まってくる」と繰り返し周りに伝えていた。に開設した鹿島営業所(当時)はまさにその言葉が現実になったものである。その頃からすでに重要なお客様であった住友金属工業株式会社(当時)が、に鹿島臨海工業地帯で鹿島製鉄所の建設を開始。丁寧な仕事で信頼を得ていた富士港運は資材の陸揚げ・搬入等の港湾作業を行い、鹿島製鉄所の建設に協力した。製鉄所完成後も引き続き富士港運は製鉄原料の荷揚げから鉄鋼製品の船積みに至る港湾作業を一手に請け負い、鹿島営業所は大きく発展した。

その後も各地で営業所を開設して事業を拡大。組織体質の強化を図り、経営を強固なものとした。五味義貞は長年の功績を認められ、に藍綬褒章、には勲五等雙光旭日章を受章。の没後には従六位に叙せられた。五味義貞が創業から貫いた想いは経営理念として脈々と受け継がれ、「人こそ宝」という文化を創り上げている。時代とともに変化する積荷の形態に創意工夫して対応してこられたのは、荷を大切にし、荷主に責任を負うという姿勢を貫き通したからである。これらは今もこれからも変わる事のない富士港運の企業文化となっている。

「経営理念」

  • お客様に喜ばれる仕事をしよう
  • 働く人を大切にしよう
五味義貞・ハナ子写真
参考文献:「感謝と報恩に生きて」(五味義貞回想録)、「富士港運50年史